ぬまのつぐみ

おもにサウナで気持ちよくなったことを自慢するブログです

サウナセンター大泉

浴場の扉を開けた瞬間に「今日は大昇天の予感。」と感じるときがある。

 

この日のサウナセンター大泉は、まさにそうだった。身体を洗っている時から静かに興奮し始める。いつもより更にじっくり身体を洗い、湯船で身体を温める。早まってはいけない。

 

ドキドキしながら、(実際はじめてサウナに入るくらいに緊張しながら)扉を開けると、むわっと熱気が身体を包む。いつもと違う、まとわりつくような蒸気だ。

 

最上段に座って姿勢を正し、じっと窺う。いつも以上に熱気の密度(?)が濃く感じる。身体の表皮隅々まで温めてくれている感覚だ。五分ほどでとりあえず退室。

 

汗を流して、1度目の水風呂。後頭部まで浸かって浮遊する。水風呂での脱力が、この日はじつに上手くいった。体育座りに直し、水面をぼうっと眺める。

 

身体の水分を軽く拭いてから2回目のサウナへ。身体は爽やかに上書きされているため、サウナの熱気をじわじわと味わえる。吐く息は、まだ水風呂のおかげで冷たい。

 

(やっぱり今日は、もしや)と思いながら、身体の熱くなっている部位を意識していく。肩、肘、手の甲、足先、背中、腰・・・そのうち、ぼたぼたと一気に汗が吹き出てくる。大きく深呼吸して、ストレッチ。

 

10分ほどで退室。じっくりシャワーを浴びて2回目の水風呂へ。同じく土左衛門と化して天井を見つめていると、じつに五分ほど過ぎていた。(いかん、これは浸かりすぎた)と思いながら浴槽をでると、浴室内の気温がすでに暖かく感じる。心なしか、腰に力が入らない。

 

3回目のサウナへ。腰かけて姿勢を正したら、蒸気に包まれ身体が温まりはじめる。安心感に包まれるようで、これがじつに心地よい。(もう何も考えられない)。まったく動けず、気付けば汗が噴出していた。

 

水風呂にはサクッと浸かり、浴槽脇のベンチに腰掛ける。力を抜いた瞬間に訪れる身体の痺れ。身体中のセンサーを切るように努力して、さらなる多幸感を目指す。頭蓋の重さを感じるようになったら、昇天。

 

やっぱり今日は、最高のサウナだった。

 

(追記)

最近足立区がアツい(勝手に)。この日は足立区に用事があり、足立区の防犯を学ぶこととなった。防犯とは関係ないが僕は元来、被差別集団に興味があって今の研究を続けている節がある。自然とこの日も、足立の歴史を触れることからはじまった。

 足立区は武蔵野国足立郡を前身として、江戸の頃より日光街道および奥州街道が横たわる交通の要のひとつだった。 当時の第一宿「千住宿」を擁したことから千住区域が繁華街として栄え、現在も北千住駅周辺にその名残が伺える。

 そもそも足立区は被差別部落としての一面があったようだ(川本・藤本 1984)。それは荒川・墨田川に挟まれていること、また歴史的繁華街である浅草および吉原の郊外にあたっていたことからも想像に難くないように思う。もとより河川敷という場所は、足立区に限らず、屠殺や皮革業を生業とする人々が集まりやすい場所だった。 1890 年には、荒川に行政屠場が設けられ、 のち1913 年には各地の屠場が吸収合併されたのだった(西井 1987)。1923 年の関東大震災を機として、浅草をはじめとする繁華近隣より被災民が流入し、結果として皮革業や在日朝鮮人が集中して定住化したことで スラム街化したようだ。このへんは、代表的な被差別地域(京都の崇仁地区など)と似たような特徴が伺える。

 東京都は歴史的に、都内での部落の存在を認めない立場をとってきたようだが、部落解放同盟足立支部が現在も残っていること、また教育関連団体が足立区に対して解放同盟の扱いについて交渉を行うなどしていることから(教育正常化推進ネットワーク 2015)、被差別地域と足立区の関連はあながち間違いでもないのだろう。このような歴史的背景が大きな原因とは限らないが、ひとまず足立区の犯罪件数は都内トップを独走していたのも事実だ。ちなみに、ついで2位は新宿などの都会だ(警視庁 2015)。

 僕の研究対象は日本ではないためこのような話は全く生きないわけだけど、世界にはもっと極端な例が存在する。たとえばルワンダのツチ・フツ族が有名だ(注1)。このジェノサイドはたった100日間で国民の1割が亡くなってしまったあまりにも有名な事例だ。ここで注目すべきはラジオ・プロパガンダの役割で、ラジオが扇動しまくったせいでフツ族の闘争心に火がつき、昨日まで友達だったお隣さんが排除対象となった点である。人間がもつ他人への評価なんて、あまりにも脆いものだなあと考えさせられる(注2)。

 ルワンダ虐殺ではなくても、探ってみるとこのような集団間対立は、世界のじつに多くの場所で起こっているのである。アフリカの歴史は高校の教科書にはあまり出てこないが、つまりそういうことかも知れない。もちろん欧州にもこのような対立は存在するが(イングランドアイルランド過激派みたいな)、こういう部分は教わらないしニュースにもなかなか取り上げられない(注3)。しかして実際はみな心のどこかで、意識せずとも差別的感情の萌芽をもっている。たしかホワイトカラーにその傾向が強いって研究があったが、忘れてしまった。

 酔っ払ったので勢いで書いたけど、つまんない話でごめんなさい。

 

(注1)第一の例は欧州の奴隷貿易だが、その話はおいとく。しかし近年、Nathan Nunnが奴隷貿易の研究を、Histrical impact evaluationで行っていてめちゃおもろい(たとえばこれ

(注2)僕の専門は思想などではないので、これ以上の考察はできませぬ。先日、社会学の学生と喋る機会があったけれど、思考体系がまったくつかめなかった。だれかおせーておくれ。。。

(注3)先日NHKで知ったが、スポンサーに頼らないメディアが注目されているようで。つまりはニュース内容に偏りや思惑などが存在しない、ということらしい。(芸能人のスキャンダルなんか報道しない!って言ってたけど、ぼくはそういうニュースは案外嫌いでもない)。この手の走りはI.F. Stoneというおじさんが自分でマガジンを出版していたことにはじまるらしく、いまではDemocracy Now!などが有名なようだ。まあ、英語わからんから無理なのだけどさ。

 

(ここで書いた文の一部は、ぼくが提出した授業レポの引用だす)