ぬまのつぐみ

おもにサウナで気持ちよくなったことを自慢するブログです

アスティル

12月はみんなして僕をイジメてきたので、サウナに入るより他はなかった。M本にも言ったけれど、どんなことがあっても、サウナは全部リセットしてくれる魔法の装置なのである。

・・・どうせ誰も読んで無いだろうから、少しだけ好きな話をさせてもらう。このサウナ・リセットの話にまつわるのだけど、論語の一節を少しだけ理解させてくれた教材があった。2ちゃんねるのまとめである:

blog.livedoor.jp

本当かどうかはさておいて(追)、妖怪退治をしている主人公が様々なエピソードを展開していく。この話に惹きつけられるのは、主人公の語り口で展開される妖怪退治の考え方が、筋道立てて説明されてる点だ。例えば、主人公が師匠の話を述べている場面(辛抱して読んでみてん):

先生は笑って

実は自分でも、たまに自分のやっていることがすこし残酷じゃないのかとか思うことがある 

でも、例えそうだとしても、後悔はしていない。

なぜなら、それは間違いなく自分のその時にやりたいと思ったことだからだ。

人間はセイチョクにいきるのが一番だ。とかなんとか。

俺はセイチョクって何ですかと聞いた。

すると先生はお酒が入ってか、すこし饒舌になって語り始めた。

セイチョクってのは「正直」ってかいて「セイチョク」って読むんだよ。

でも勘違いするな、セイチョクは「ショウジキ」じゃない。

「ショウジキ」はお坊さん用語で、嘘をつかないことを指している

お坊さんたちの世界ではウソをつくと地獄に落ちる。

セイチョクは違う。セイチョク正直、文字通りまっすぐであるという意味だ。

何にまっすぐか、そりゃあ、自分の心にだよ

 

そして、先生は、昔のすごい人で孔子ってひとの話をしてくれた。

ある日、孔子がある国の王様と話をしていたら、その王様が

「うちの国のものはみんな正直だ!例えばAの家の父親がBの家のヤギをぬすんだ
 すると、Aの家の息子さんが、自分の父親が盗んだと証言したんだ」

 すると、孔子はこう答えた

「私が思う正直はそうではありません。もし親が盗みを働いたら、子供はそれを隠くし子供が盗みを働いたら、親はそれを隠ぺいする。これが本当の意味での正直だ」

と。 

 

自分の心に素直に従って行動する。 

これがとても大切だ。妖怪と接する際も、人間と接する際もこれだけは変わらない。

自分の本当の心に従うんなら、うそついても、ごまかしても、なんか悪いことをしてもそれはしかたないことだ。自分の本心なんだから。

・・・

ここで、論語の一節「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す、直きこと其の内に在り」が引き合いに出されながら、「自分の心に素直な選択が心の安寧をもたらす」というお話が紹介されていた。(こうした宗教や文学は、反省のためのシンプルな考え方を提示してくれる有用なツールだなあ・・・ぼくは単細胞なので、この妖怪退治の話を「ほほほう」と深く感心した。)

 しかし。しかしですよ。サウナでは近しい状態を得られるのですよ旦那。以前も書いたけど、サウナに入るとなぜか思考が研ぎ澄まされる(というか要らないことを考える余裕が無くなる)。サウナはいろんなことを考えるのに最適な空間だ。研究のこと、将来のこと、女のこと、晩飯のこと。このとき、「いまの自分が正しいのだろうか」という自問タイムが必ず訪れるのだが、上記で引用したような「いままでの自分は、自分に素直だった」という自己肯定(自己説得かも)へと、サウナは導いてくれる。いずれにしろ、自分を許してあげられる空間なのである。その意味で、サウナは全部リセットしてくれる魔法の装置だ。

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 「みんなサウナに行けばよいのに・・・」と思っていたが、そんな単純ではないようだ。この日は新橋のアスティルに向かった。年末ということで人も多いが仕方ない。だけれども、五人ほどの酔っ払い集団がサウナ室に乱入し、楽しそうに暴れまくり、他の客とも口論しまくり、警備員が出動する始末。ああ、サウナが周知されすぎると、良質なサウナが侵されちゃう。あまりみんなが来るのもなあ。

 ちなみにアスティルは、テレビがない珍しいサウナだ。照明も柔らかくて、じっとりと過ぎ行く濃厚な時間を楽しめる。もちろん水風呂もばっちりだ。(これで外気浴があればなあ)。この日のアスティルは気持ちよかったけど、別のサウナにも行っちゃおうかしらんと思える日であった。(つづく)

 

(追)「インターネットの話をどこまで信じるか?」という話を突き詰めると、"ある情報"が「本当かどうか」の判断基準の話に帰着することは明白だと思う。"ある情報"はテレビの情報番組で提示される円グラフ、ラジオで流れてくる交通情報などなんでもよい。(ここでは、情報の判断という題材を通じて、オカルト話を導入として科学哲学の紹介から俺様主張への橋渡しを試みる)。

 結論から述べると、テレビ・ラジオ・インターネット等すべての情報において(殊趣味においては)、「本当かどうか」を気にすることは、じつは野暮だったりするというのが所感。(糞何様の与太話なのだけれど、酔っ払っているからいいだらう。この節は自己正当化の役割が大きいし)というのも、研究の泥沼に沈むほどに、「本当かどうか」という話は、結局のところ個人のイデオロギーに強く依拠するのでは無いかと、かんじるようになった。

 このおはなしの導入として、怖い話まとめブログというサイトがある。ネットに氾濫する怖い話をひたすらまとめてくれているサイトで、ピンキリの数千のエピソードがある。ぼくは毎日、学食のソーセージカレーを食べながら怖い話を読むのが1日の楽しみなのだけど、ここでオカルトが「嘘か真か」を気にしていたら楽しめない。

 オカルト話の信憑性、つまり幽霊は「本当にいるのか」を考えるときに、多くのひとがまず考える思考経路は「非科学的だ」だろう。しかしこのとき、じつは「科学的」という単語の意味を説明できる人は一握りだとおもう。なにより非科学という言葉を使うためには、科学を説明できなくてはいけない。

 科学ってなんなんだろう?これを本気で考えてみると、それだけで奥深い世界が見えてくる。この考え方を明快に提示してくれる有名な良書をふたつ紹介する:

科学哲学の冒険(戸田山和久, 2005) , 疑似科学と科学の哲学(伊勢田哲治, 2003)

ここでは科学哲学という分野がおおいに活躍する。戸田山(2005)は学生と先生の対話形式で議論が進んで行き、文章も平易でめちゃくちゃ読みやすい(と同時に、先生方はこういった学生が理想としているかもしれない)。伊勢田(2003)は疑似科学(たとえば占星術東洋医学)を例として、演繹・帰納法などの基本的な概念を丁寧に織り込みながら、科学との違いを議論することで"科学"の形を浮き彫りにしていく。いずれも寝る前に読んで楽しいおすすめの本。(とくに社会科学に身をおく方々ならば、必ず「社会科学って科学なんか?」という類の疑問が付き纏うと思う。)

 創造科学を例とすると、キリスト教の創造説とダーウィン進化論の論争が(必然ながら)勃発し、1990年ごろにはアメリカで裁判にまでなっている。この裁判では「創造科学が科学かどうか」の攻防において、「科学の定義」が芳醇に議論され、結果として「検証できない(反証可能性をもたない)」ことを理由として「創造科学は科学ではない」との判決に至った。(詳しくは図書館で借りて読んでみてね。すげーおもしろいから)

 科学哲学さんの手を借りて主張したいことは"科学"の定義が実は難しいということで、多くの人の「オカルトは非科学的」という直感に疑問を投げかけてみた。しかしこれでは、オカルト否定材料の一つを殴っただけにすぎないし、それで観察できないモノの存在を認めろという話は賛同を得られないだろう。(じつはこの観察できるものの議論が科学哲学での重要な論点なのだけど割愛。詳しくは構成主義でググってみると幸せ)。

 反対に、オカルト話の肯定的立場からも、否定派に対してなにか主張しなくてはいけないだろう。ここはブログだから、傍若無人にラーメンズのコントを引き合いに出してみる。

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片桐仁(左)小林賢太郎(右)©Twinkle Corp. Ltd.

 

彼らの公演「TEXT」(2007年)より、「不透明な会話」という15分ほどのコントがある。この中で、透明人間の存在を巡って以下のやり取りがある:

 片桐「みえない透明人間を信じろってほうが難しいだろ」

 小林「お前はなんだ、見えないものは信じないのか。たとえば昼間、星は見えないけれど、お前は存在を疑うか?」

 片桐「それとこれとは完全に違う話だ。俺は星の存在を信じる。だって見たことあるもん。でも透明人間は見たことねえもん」

 小林「そりゃ透明人間だもん。誰も見たことねえよ。透明なんだから。」

 片桐「じゃあなんで居るって言い切れるんだよ」

 小林「居ないって言い切れないからだよ」

という問答がひたすら続く(そして直後の「条例」というコントの布石でもあるのだが。ラーメンズ愛はまたどこかで語らん)。ここでの「居ないって言い切れない」ということは、「透明人間が居ない」という証明が不可能、つまり「透明人間が居る」という命題の反証可能性を否定することで「透明人間が居ない」という議論を無効化する、乱暴なやり口だ。この話は論理の対偶を用いるとすぐに否定されてしまうのだけどね。(でもこのコント面白いからみてみて)

 ここまでをまとめてみると、オカルト事象は反証不可能なので非科学的であり、科学的存在を認めるに至らない。一方オカルト擁護派は論理のやや乱暴な詭弁によってオカルト否定行為自体を否定しようと試みた・・・裁判員が何人いても、この幼稚なオカルト論争は、否定派に軍配があがるだろう。

 しかし実際にいるのかどうかは、まさしく神のみぞ知るのである。科学哲学では、現代の科学的手法を用いて観察できたからといって、観察対象が実在するといってよいのかが議論の一つである(つまり、量子や原子は見えないのに、機械による間接的な観察でそれらの実在を主張してよいの?ということ)。もうこうなってくると泥沼であるし、何世紀たってもわかりそうにない(から面白い)。じゃあ科学って意味ないのだろうか。そんな疑問に、森博嗣の言葉が勇気付けてくれる:

算数や数学、そして物理といった科目が教えてくれるのは、「道理」というものの扱い方、すなわち、ものを考える「方法」である。勉強とは「言葉を覚えることだ」と、思っている人には、数学が実社会で役に立つものにはみえない。つるかめ算が役に立つような場面もないし、微積分の能力が求められることもまずない。しかし、これらの精神といえるもの、すなわち「科学」の「方法」は、まちがいなく現代社会の基盤を成している。

科学的とはどういう意味か(森博嗣 2011)

オカルトの信憑性から、科学の信憑性に話をシフトした。科学は全てを答えてくれるわけではないし、科学が全知全能でないならば、我々は真実を知るすべもない。だから、オカルトの是非も究極的にはわからない(という強引なこじつけ)。

 しかし、オカルトを楽しめる人と楽しめない人が世の中に存在するのはどういう理由だろう。このとき、多くの人が「科学」を主な論拠とするならば、彼らの違いを説明する理由は二つ考えられる:①科学に全幅の信頼をおく(ゆえにオカルトを否定する);②科学にこだわらない(ゆえにオカルトの是非を気にしない)。もちろんこれだけがすべての説明にはならないけど、ある1次元つまり「科学的」という側面を切り取るならば、上記のように分類できるのではなかろうか。そして、科学に信頼をおく身の人々(ぼくも含めて)は、科学の定義を知らないと、思考方法の根幹から否定されかねない危険を孕んでいる(だから分析手法のフォローアップを止められない。でもそもそも追いつけない。泣)。

 一方で、科学をよく知らなくてもオカルトを否定する人々は「科学」の言葉を借りながら「自分が認めたくないもの」の主張をしていることになるのではないか知らん(アネクドートね。このブログもね)。オカルトのような、個人の本業と関係ない領域については、真偽のほどは傍にどけて置いて、本当にあったと思って読んだ方が楽しいと思う。そしてこのオカルトの正否の議論は、インターネットでも同じように考えることができるし、ひいては任意の情報に対する判断基準に拡張できると思われ(早足で雑)。

(という主張が言いたくて書いてみたけど、インターネットやオカルトの話から他のメディアへの一般化もしてないし、そもそもまったく論理的でない文章だし、頭の悪さが露呈しただけだった。。でも好きなものをいくつか打ち込めたからいいや(なぜならIF=0)。正月だし思い切り書いてみたけど、たぶん後からすごい恥ずかしくなるんだろうなあ。あとほんとぜんぜん関係ないけど、いまnever young beachの「お別れの歌」を聴いているのだけど、PVの小松菜奈と彼氏役のやりとりが芝居だったらスゲェ, youtube-Link: Official. )