ぬまのつぐみ

おもにサウナで気持ちよくなったことを自慢するブログです

ウェルビー栄

この日は急な私用で、愛知県は半田市へ向かう。

JR武豊線の半田駅は日本最古の跨線橋(線路を跨ぐ通路)が残っていて、明治のものらしい。駅舎全体が古く、色合いも含めて、おもちゃみたいなかわいい造りだ。1月の愛知はまったく寒く無く、上着なしで歩けるポカポカ陽気だった。海も近いため、沿岸独特の空気が漂う。

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(写真が下手だけど)

 半田といえば酢のにおいが充満する町だった。江戸の頃より、ミツカン本社とその工場が半田にあったからだ。最近は工場を移してしまったようで、すっかり酢の臭いが無くなってしまった。・・・知多半島の街並みを堪能しながら、親戚方に合流。なかには十数年ぶりに会う叔父さんなども居て、すこし緊張した。

 夕刻に用事が済んで親戚と解散し、ひとり栄へと向かう。お目当てはふたつ。ひとつはウェルビー栄だ:

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(まだ門松が飾ってあった)

 

 ここの、「森のサウナ」は、最高のサウナです。

 

もう、なんといいますか。私のような若輩者が書き記すのもおこがましいのですが、こちらの森のサウナは是非いちど、経験していただきたいです。本場フィンランドのサウナには行ったことがないのだけれど、フィンランド式サウナを忠実に再現したものらしく、コテージのような8畳ほどのサウナが「森のサウナ」。

 薄暗い落ち着く照明。テレビはもちろん設置されておらず、静謐な空間が保たれている。腰をかける椅子は3段。最上段では頭が天井に接するかどうかで、熱気を無駄にしない。またセルフロウリュが可能で、その強輻射熱によって、ストーブ型とは異なる肌への加熱が味わえる。一歩間違えれば呼吸すら難しいのだが、自然と苦しくない。

 さらに、ヴィヒタが「これでもか」と置かれていて、白樺の香りが充満している。出入り口の扉は、下部20cmほどが切り取られているため、換気扇に頼らない換気が行われる。

 新鮮な空気に森の香り。電源ではない優しいサウナストーン。時間が止まったような空間だ。ぼくは、ここのサウナが大好きだ。

 さらには水風呂も15℃ほどで、胸までの水深。(こんな贅沢が許されて良いのだろうか)。二往復してリクライニングに腰掛けると、即刻頭が真っ白になってしまう。体が浮いているよう。ゆっくり頭の向きを変えると、頭蓋の重さを感じる。なにも聞こえなくなっていく。

 

・・・1時間しか滞在を許されなかったため、泣く泣く退店。栄の二つ目の目的は、ウェルビーから歩いて1分、珈琲屋のびぎんだ:

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大学生の時に「ガガーン」とショックを受けてからファンなのだけれど、珈琲豆ってこんなに味濃いの?ってくらい濃厚でチョコレートみたい。伝わりにくいかもしれないんですが:

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(左が"びぎん"の豆で、色が濃くて少し脂っぽいです。ちなみに右のも紅茶みたいで美味しいよ)

もちろん下手くそな俺が淹れても味が違います。びぎんのおっちゃん、ありがとう。

 

コロナの湯

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(自宅からの初日の出)

ぼくの未熟なブログに訪れてくださり、心より感謝致しております。すべての皆様にとって、幸多き一年となることを心よりお祈り申し上げます。

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大晦日・元旦は代わり映えしない様子だったけれど、この日起きた直後にM本から電話が来る。「年末年始暇だから、仙台来いよ」。なんとも傍若無人な。

 彼は今年から所帯を持つ。(暫くはこうして気軽に遊べないかもなあ)という考えが頭をかすめる。今月は学費を払う予定だが、まあ、正直M本のほうが大事だ。仙台へ。

 正月ということで、駅はまだ人がまばら。東北新幹線もガラガラであった。(心なしか、道行く人々の顔には余裕が滲んでいる)。夕刻仙台に到着し、彼とラーメンを食べてから風呂へ向かう。お気に入りだった極楽湯仙台南店は閉店してしまっていた。

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(M本が保管していた、極楽湯のタオル。嬉しくて、思わず写真を撮ってしまったよ)

 

新規開拓ということで、コロナの湯へ向かう。

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ここは大江戸温泉グループということで、安価の割に充実した設備だった。内湯は広く、露天も種類が豊富。サウナはミストサウナと高温サウナが用意されていて、どちらもクオリティが高い。誰かとおしゃべりするなら、長時間入っていられるミストサウナが快適。水風呂は胸下ほどの深さで17℃ほど。カルキ臭も無くてきもちいい。

指に皺ができるまで二人でダラダラした。M本と喋っていると、なんだか落ち着く。今年は味気ない正月のはずだったが、彼のおかげで、心安らぐスタートとなった。

 

(追)M本宅で一泊して、昼飯に田中そば店へ(ここは本当におすすめのラーメン屋です)。夕刻まで遊んで、盛岡から帰る途中だったKっちゃんを途中下車させて合流。三人で一仙の牛タン定食を食べる。終電ギリギリで東京行きの新幹線へ。

今月は、出張でもう一度仙台に来る予定で、是非ともキュア国分町に行きたい。ああ、いまからもう楽しみだ。

サウナセンター大泉

アスティルにはK氏と居た。退店後、二人して体から湯気を出しながら夜の新橋を歩く。彼が0時に誕生日を迎えたので寿司を食べる。喫茶に移り、いつもどおりしょうもない話に花を咲かせていたら始発が始まる時間であった。彼はこの日朝一の新幹線で盛岡に帰るということで解散。

 徹夜したし、もういっこ、ということでサウナのハシゴをすることにした。年末だからいいだろう。(「年末だから」ということで随分財布の紐が緩くなるのは、ぼくだけではないはず。。)

 やってきたところは大正義サウナセンター大泉さん。受付してからはもう早足で、浴場の扉をあけると洗い場と湯船・水風呂が目に飛び込んでくる。しばし立ち止まる。水面は、朝日をあびてキラキラしている。小さな造りだが、綺麗に整えられた空間。(あああっ。これだよこれ。)と内心叫びながら、そそくさと身体を流してサウナへ直行。早朝ということで年配の方がひとりテレビを見ているだけ。薄暗い照明のなか、じわじわと時間は過ぎてゆく。ひと通りストレッチを終わらせてから退室、汗を流して水風呂へ。後頭部まで浸して土左衛門と化す。

 ひとやすみしてから、もう一度サウナへ。蛍光灯の音を聞いていたら、自然と今年おこったことが思い起こされる。今年は長期出張もなく、穏やかな一年だったが、それでもいろいろあった。後悔もたくさんあるが、今となってはすべて所与のものだ・・・ウダウダしていたら背骨のあたりが熱くなってきたので限界。退室して汗を流し、もう一度水風呂へ。ここの水はやわらかくて優しい。肩まで浸かってから五秒ほど我慢すると、サウナとはちがう種類の快楽に包まれる。水風呂から出てベンチに深く座る。ゆっくり深呼吸する。もう、なにも考えることはない。今年も、サウナにたくさん救われた。サウナだけでなく、多くの人に感謝してもしきれない。

 冷たい息を吐きながら、今年最後のサウナトリップを終えた。

アスティル

12月はみんなして僕をイジメてきたので、サウナに入るより他はなかった。M本にも言ったけれど、どんなことがあっても、サウナは全部リセットしてくれる魔法の装置なのである。

・・・どうせ誰も読んで無いだろうから、少しだけ好きな話をさせてもらう。このサウナ・リセットの話にまつわるのだけど、論語の一節を少しだけ理解させてくれた教材があった。2ちゃんねるのまとめである:

blog.livedoor.jp

本当かどうかはさておいて(追)、妖怪退治をしている主人公が様々なエピソードを展開していく。この話に惹きつけられるのは、主人公の語り口で展開される妖怪退治の考え方が、筋道立てて説明されてる点だ。例えば、主人公が師匠の話を述べている場面(辛抱して読んでみてん):

先生は笑って

実は自分でも、たまに自分のやっていることがすこし残酷じゃないのかとか思うことがある 

でも、例えそうだとしても、後悔はしていない。

なぜなら、それは間違いなく自分のその時にやりたいと思ったことだからだ。

人間はセイチョクにいきるのが一番だ。とかなんとか。

俺はセイチョクって何ですかと聞いた。

すると先生はお酒が入ってか、すこし饒舌になって語り始めた。

セイチョクってのは「正直」ってかいて「セイチョク」って読むんだよ。

でも勘違いするな、セイチョクは「ショウジキ」じゃない。

「ショウジキ」はお坊さん用語で、嘘をつかないことを指している

お坊さんたちの世界ではウソをつくと地獄に落ちる。

セイチョクは違う。セイチョク正直、文字通りまっすぐであるという意味だ。

何にまっすぐか、そりゃあ、自分の心にだよ

 

そして、先生は、昔のすごい人で孔子ってひとの話をしてくれた。

ある日、孔子がある国の王様と話をしていたら、その王様が

「うちの国のものはみんな正直だ!例えばAの家の父親がBの家のヤギをぬすんだ
 すると、Aの家の息子さんが、自分の父親が盗んだと証言したんだ」

 すると、孔子はこう答えた

「私が思う正直はそうではありません。もし親が盗みを働いたら、子供はそれを隠くし子供が盗みを働いたら、親はそれを隠ぺいする。これが本当の意味での正直だ」

と。 

 

自分の心に素直に従って行動する。 

これがとても大切だ。妖怪と接する際も、人間と接する際もこれだけは変わらない。

自分の本当の心に従うんなら、うそついても、ごまかしても、なんか悪いことをしてもそれはしかたないことだ。自分の本心なんだから。

・・・

ここで、論語の一節「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す、直きこと其の内に在り」が引き合いに出されながら、「自分の心に素直な選択が心の安寧をもたらす」というお話が紹介されていた。(こうした宗教や文学は、反省のためのシンプルな考え方を提示してくれる有用なツールだなあ・・・ぼくは単細胞なので、この妖怪退治の話を「ほほほう」と深く感心した。)

 しかし。しかしですよ。サウナでは近しい状態を得られるのですよ旦那。以前も書いたけど、サウナに入るとなぜか思考が研ぎ澄まされる(というか要らないことを考える余裕が無くなる)。サウナはいろんなことを考えるのに最適な空間だ。研究のこと、将来のこと、女のこと、晩飯のこと。このとき、「いまの自分が正しいのだろうか」という自問タイムが必ず訪れるのだが、上記で引用したような「いままでの自分は、自分に素直だった」という自己肯定(自己説得かも)へと、サウナは導いてくれる。いずれにしろ、自分を許してあげられる空間なのである。その意味で、サウナは全部リセットしてくれる魔法の装置だ。

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 「みんなサウナに行けばよいのに・・・」と思っていたが、そんな単純ではないようだ。この日は新橋のアスティルに向かった。年末ということで人も多いが仕方ない。だけれども、五人ほどの酔っ払い集団がサウナ室に乱入し、楽しそうに暴れまくり、他の客とも口論しまくり、警備員が出動する始末。ああ、サウナが周知されすぎると、良質なサウナが侵されちゃう。あまりみんなが来るのもなあ。

 ちなみにアスティルは、テレビがない珍しいサウナだ。照明も柔らかくて、じっとりと過ぎ行く濃厚な時間を楽しめる。もちろん水風呂もばっちりだ。(これで外気浴があればなあ)。この日のアスティルは気持ちよかったけど、別のサウナにも行っちゃおうかしらんと思える日であった。(つづく)

 

(追)「インターネットの話をどこまで信じるか?」という話を突き詰めると、"ある情報"が「本当かどうか」の判断基準の話に帰着することは明白だと思う。"ある情報"はテレビの情報番組で提示される円グラフ、ラジオで流れてくる交通情報などなんでもよい。(ここでは、情報の判断という題材を通じて、オカルト話を導入として科学哲学の紹介から俺様主張への橋渡しを試みる)。

 結論から述べると、テレビ・ラジオ・インターネット等すべての情報において(殊趣味においては)、「本当かどうか」を気にすることは、じつは野暮だったりするというのが所感。(糞何様の与太話なのだけれど、酔っ払っているからいいだらう。この節は自己正当化の役割が大きいし)というのも、研究の泥沼に沈むほどに、「本当かどうか」という話は、結局のところ個人のイデオロギーに強く依拠するのでは無いかと、かんじるようになった。

 このおはなしの導入として、怖い話まとめブログというサイトがある。ネットに氾濫する怖い話をひたすらまとめてくれているサイトで、ピンキリの数千のエピソードがある。ぼくは毎日、学食のソーセージカレーを食べながら怖い話を読むのが1日の楽しみなのだけど、ここでオカルトが「嘘か真か」を気にしていたら楽しめない。

 オカルト話の信憑性、つまり幽霊は「本当にいるのか」を考えるときに、多くのひとがまず考える思考経路は「非科学的だ」だろう。しかしこのとき、じつは「科学的」という単語の意味を説明できる人は一握りだとおもう。なにより非科学という言葉を使うためには、科学を説明できなくてはいけない。

 科学ってなんなんだろう?これを本気で考えてみると、それだけで奥深い世界が見えてくる。この考え方を明快に提示してくれる有名な良書をふたつ紹介する:

科学哲学の冒険(戸田山和久, 2005) , 疑似科学と科学の哲学(伊勢田哲治, 2003)

ここでは科学哲学という分野がおおいに活躍する。戸田山(2005)は学生と先生の対話形式で議論が進んで行き、文章も平易でめちゃくちゃ読みやすい(と同時に、先生方はこういった学生が理想としているかもしれない)。伊勢田(2003)は疑似科学(たとえば占星術東洋医学)を例として、演繹・帰納法などの基本的な概念を丁寧に織り込みながら、科学との違いを議論することで"科学"の形を浮き彫りにしていく。いずれも寝る前に読んで楽しいおすすめの本。(とくに社会科学に身をおく方々ならば、必ず「社会科学って科学なんか?」という類の疑問が付き纏うと思う。)

 創造科学を例とすると、キリスト教の創造説とダーウィン進化論の論争が(必然ながら)勃発し、1990年ごろにはアメリカで裁判にまでなっている。この裁判では「創造科学が科学かどうか」の攻防において、「科学の定義」が芳醇に議論され、結果として「検証できない(反証可能性をもたない)」ことを理由として「創造科学は科学ではない」との判決に至った。(詳しくは図書館で借りて読んでみてね。すげーおもしろいから)

 科学哲学さんの手を借りて主張したいことは"科学"の定義が実は難しいということで、多くの人の「オカルトは非科学的」という直感に疑問を投げかけてみた。しかしこれでは、オカルト否定材料の一つを殴っただけにすぎないし、それで観察できないモノの存在を認めろという話は賛同を得られないだろう。(じつはこの観察できるものの議論が科学哲学での重要な論点なのだけど割愛。詳しくは構成主義でググってみると幸せ)。

 反対に、オカルト話の肯定的立場からも、否定派に対してなにか主張しなくてはいけないだろう。ここはブログだから、傍若無人にラーメンズのコントを引き合いに出してみる。

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片桐仁(左)小林賢太郎(右)©Twinkle Corp. Ltd.

 

彼らの公演「TEXT」(2007年)より、「不透明な会話」という15分ほどのコントがある。この中で、透明人間の存在を巡って以下のやり取りがある:

 片桐「みえない透明人間を信じろってほうが難しいだろ」

 小林「お前はなんだ、見えないものは信じないのか。たとえば昼間、星は見えないけれど、お前は存在を疑うか?」

 片桐「それとこれとは完全に違う話だ。俺は星の存在を信じる。だって見たことあるもん。でも透明人間は見たことねえもん」

 小林「そりゃ透明人間だもん。誰も見たことねえよ。透明なんだから。」

 片桐「じゃあなんで居るって言い切れるんだよ」

 小林「居ないって言い切れないからだよ」

という問答がひたすら続く(そして直後の「条例」というコントの布石でもあるのだが。ラーメンズ愛はまたどこかで語らん)。ここでの「居ないって言い切れない」ということは、「透明人間が居ない」という証明が不可能、つまり「透明人間が居る」という命題の反証可能性を否定することで「透明人間が居ない」という議論を無効化する、乱暴なやり口だ。この話は論理の対偶を用いるとすぐに否定されてしまうのだけどね。(でもこのコント面白いからみてみて)

 ここまでをまとめてみると、オカルト事象は反証不可能なので非科学的であり、科学的存在を認めるに至らない。一方オカルト擁護派は論理のやや乱暴な詭弁によってオカルト否定行為自体を否定しようと試みた・・・裁判員が何人いても、この幼稚なオカルト論争は、否定派に軍配があがるだろう。

 しかし実際にいるのかどうかは、まさしく神のみぞ知るのである。科学哲学では、現代の科学的手法を用いて観察できたからといって、観察対象が実在するといってよいのかが議論の一つである(つまり、量子や原子は見えないのに、機械による間接的な観察でそれらの実在を主張してよいの?ということ)。もうこうなってくると泥沼であるし、何世紀たってもわかりそうにない(から面白い)。じゃあ科学って意味ないのだろうか。そんな疑問に、森博嗣の言葉が勇気付けてくれる:

算数や数学、そして物理といった科目が教えてくれるのは、「道理」というものの扱い方、すなわち、ものを考える「方法」である。勉強とは「言葉を覚えることだ」と、思っている人には、数学が実社会で役に立つものにはみえない。つるかめ算が役に立つような場面もないし、微積分の能力が求められることもまずない。しかし、これらの精神といえるもの、すなわち「科学」の「方法」は、まちがいなく現代社会の基盤を成している。

科学的とはどういう意味か(森博嗣 2011)

オカルトの信憑性から、科学の信憑性に話をシフトした。科学は全てを答えてくれるわけではないし、科学が全知全能でないならば、我々は真実を知るすべもない。だから、オカルトの是非も究極的にはわからない(という強引なこじつけ)。

 しかし、オカルトを楽しめる人と楽しめない人が世の中に存在するのはどういう理由だろう。このとき、多くの人が「科学」を主な論拠とするならば、彼らの違いを説明する理由は二つ考えられる:①科学に全幅の信頼をおく(ゆえにオカルトを否定する);②科学にこだわらない(ゆえにオカルトの是非を気にしない)。もちろんこれだけがすべての説明にはならないけど、ある1次元つまり「科学的」という側面を切り取るならば、上記のように分類できるのではなかろうか。そして、科学に信頼をおく身の人々(ぼくも含めて)は、科学の定義を知らないと、思考方法の根幹から否定されかねない危険を孕んでいる(だから分析手法のフォローアップを止められない。でもそもそも追いつけない。泣)。

 一方で、科学をよく知らなくてもオカルトを否定する人々は「科学」の言葉を借りながら「自分が認めたくないもの」の主張をしていることになるのではないか知らん(アネクドートね。このブログもね)。オカルトのような、個人の本業と関係ない領域については、真偽のほどは傍にどけて置いて、本当にあったと思って読んだ方が楽しいと思う。そしてこのオカルトの正否の議論は、インターネットでも同じように考えることができるし、ひいては任意の情報に対する判断基準に拡張できると思われ(早足で雑)。

(という主張が言いたくて書いてみたけど、インターネットやオカルトの話から他のメディアへの一般化もしてないし、そもそもまったく論理的でない文章だし、頭の悪さが露呈しただけだった。。でも好きなものをいくつか打ち込めたからいいや(なぜならIF=0)。正月だし思い切り書いてみたけど、たぶん後からすごい恥ずかしくなるんだろうなあ。あとほんとぜんぜん関係ないけど、いまnever young beachの「お別れの歌」を聴いているのだけど、PVの小松菜奈と彼氏役のやりとりが芝居だったらスゲェ, youtube-Link: Official. ) 

つくばユーワールド

皆様には、兎に角こちらをご覧いただきたいです:

tver.jp

マツコの知らない世界」で、サウナが取り上げられていました。。。しかもタイムズスパレスタさやの湯が出ている。嬉しい。12月27日までしか視聴できないので是非。

帰ってきてから観たけれど、今すぐにサウナ行きたくなった。(最近好きなものを想像すると涎が出るんだけれど、この反射はどこで培われたのかしらん)

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そういえば先日、サウナから帰る道すがら、原付の上で昇天しそうになった。

 その日はバイト帰りにつくばユーワールドのサウナに入った。いつもサウナと水風呂の往復は、水風呂に入って終わるのだけれど、冬到来なのでサウナで締めた。しっとり汗をかいたまま原付に跨り家路につく。外気は1度、時速30kmで移動すると体感温度はだいたいマイナス10℃。外気が水風呂の代わりになり、どんどん気持ちよくなってゆく。伝わりづらいと思うけれど、前を流れる景色が一点に集中してゆく。(これがまたすんごく気持ちいい)脳内お花畑のまま家に到着。まだちょっと、身体が火照っている。冬もサウナは最高だ。

また、この日のサウナはいろいろ考えがすっきりした日だった(以下雑感)

  • 現在二つの研究領域に跨っているのだが、どうにか一つのフレームで議論できないかと考えていたら、できそうな気がしてきた(サウナのおかげで)。汗ダクダクで「ムッ(-"-;) 」となったのだけど、DIDの両軸を外生と見做すことはほぼ不可能なのだが、片軸でもIVの構造を見つければ、それだけで既存のDID分析を上回るわけで(仮定が満たされれば)。じゃあ両軸をIV にすれば?と思ったけど、結局これは唯のDIDより質が落ちそうな危険な香り(面倒臭い)。DIDの片方は純粋な自然実験的状況とし、もう片方はIVにするのが楽なのでは(常識だったろうけど、アタイは今実感できたの)。
  • こう考えるとなるほど、パズルのようなもので、手持ちの駒でも当てはまりそうな組合せが出てきた。この気づきはかなりスッキリした。ポジティブキャンペーンではなく、明らかにサウナはこの思考整理に一役かってくれた。
  • どうせ日記みたいなものなので、ついでに書かせてもらうと、DIDを使う以上は Balance test がやっぱり必要となってくるけれど、Balancingな状況は実はなかなか無い(自然実験て・・・)。ということはExperimentalだと主張できないDIDで識別することになるけれど、それだとフィールドトップにはもはや届かないだろう(Common trend checkだけでは足りない感あるし)。けっきょく、僕はいつまでたっても時代遅れの因果推論を使ってるんだなあ。わからないことだらけだ(トホホ)。
  • この状況を打開する一つの案として注目されたのが傾向スコアマッチングなのだろう。先日ReStatのGeneralized Propensity Scoreを応用した論文を教えて貰った。どうやらこれが今のペーパーに使えそうなのだが、結局変数選択から恣意性を拭えない以上、まだ人の好き嫌いの域を出ないように感じる。ぼくそこまでの論理力無いですし。とりあえず今度のセミナー用に、応用するよう頑張ってはみたい。(ちなみにセミナーは仙台なので、キュア国分町が待っている。嗚呼、なんということか。今から楽しみでならない。あすこのロウリュはまた最高なんだ。あと外気浴スペース。キンキンの深い水風呂も恋しい)
  • サウナでもう一つクリアになった疑問は、因果推論と予測の人が会話をするときに、お互いをどう認識すればよいのかいまだに分からない(別にどちらを使うのも、それぞれの流儀があるのだと思うけど)。「どっちもガチで勉強しろ」という話なんだろうけど,それならどこか共通点をもつテーマを導入にしたい。足がかりとしてGibbons et al. (2014)を読んでみようと思ったけれど、そういえば俺時系列弱いんだった。終了。誰かにわかりやすく教えてほしいと思うのは甘えだろうか。

池袋タイムズ・スパ・レスタ

サウナ室内では、皆思い思いに時間を費やしている。ボウっとテレビを観ているおじさん。小声で喋る兄ちゃんたち。滴る自分の汗を無心で眺めるマッチョ。

突如、ジュワーッと音が鳴り響く自動ロウリュだ。天井から水が落ち、熱々のサウナストーンに降りかかった。

瞬間、サウナは静寂に包まれる。

汗まみれの男たちが一斉に音源を眺めている。涎を飲み込むような、恍惚とした、満ち足りた眼差しだ。そして皆ゆっくりと瞼を閉じる。ロウリュの暖かさを噛み締めている。

(ああ。ここに居る人たちは、サウナが本当に好きなんだ)

なんとなく僕も幸せになり、来る熱波に備えて頭を垂れた。

 

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というタイムズ・スパ・レスタでのひと場面。先日Wタさんとサウナミーティングを開催したときだ。

 W氏は先月関西のサウナを渡り歩いており、逐一報告をもらっていた。「もしやこの人とはサウナ一緒に行けるかも・・・?」と思ったのはその時だった。

(心から好きなものを共有するのは、一歩間違えれば傷を負うので、おいそれとオープンにはできない)

 

www.timesspa-resta.jp

 

夕方、Wタさんとレスタ入り口で落ち合う。

 

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 サウナは、誰でも一緒に行けるわけではない(私の器が狭いだけだが、今のところ改める気もない)。"サウナ"が好きな人じゃないと、どうしてもフラストレーションが溜まる。つまり互いにそれぞれが、サウナを楽しむ自分のテンポを知っていて、べったり一緒に行動する必要がないということ(ナニサマ発言)。 僕は、個々のペースで湯船・サウナ・水風呂・外気浴を満喫し、たまに近くに座ったら会話を交わすくらいがちょうどよいと思っています。

 ネガティブな意味ではなく、W氏は独りの時間の楽しみ方を会得しているように見受けられる(独りを楽しめる人は、皆すべからく格好よく映るので憧れる)。沈黙は会話の跡切れではなく風呂を堪能する時間。友達が同じくサウナを満喫しているだけで、サウナの楽しさは倍増だ。(というのが私の独りよがりで、実はW氏に不満が溜まっていたら、それはごめんなさい。しかしWタさん、俺楽しかったよ。また付き合ってくれると嬉しい) 

 おのおの好きなタイミングで浴場を退出。「サウナ入るとなんか腹減るよね」と言いながら飯を一緒に食べる。ここでやっと、まとまった会話を交わした。(以前も書いたけど、喋るほどにW氏は味が出てくる。旅館の件なんか最高だった)

 サウナ・ご飯と来たら、あとは寝るだけ。リクライニングスペースに二人で横になり涅槃の世界へ。

神戸サウナ・スパ

 

神戸サウナは最高だった。すごい。すばらしい。マーベラス。ほんとに。

 

どうしよう。この感動を正しく伝えきれそうにない。箇条書きだと以下の通り:

  • フィンランドサウナがある(セルフロウリュ可):岩に水をかける「ジュワッ」という音の、なんと神聖なことか。テレビがなく静かで、照明は薄暗く、さらに大きな窓が付いている。静かな気持ちで、じわじわサウナを楽しむには最高の空間だ。
  • 水風呂が外にある:17℃表記の水風呂にプカプカ浮かびながら空を眺めていると(こんな贅沢があってよいものだろうか)と心配になる。そのまま外気浴をすると天に召される。
  • 15℃の水風呂もある:深い浴槽(胸くらい)で15℃はかなり嬉しい。水風呂のすぐ目の前にはミネラルウォーター完備。最強か。
  • アウフグースが20分おき:メインサウナはテレビ付きの明るいサウナ。そこでは20分おきに兄ちゃんたちが全力で扇いでくれる。なんてこった。いつサウナループを抜ければいいんだ。
  • 細かい心遣いが散見される:サウナのクオリティはもちろんのこと、浴場の出入口足元に常にお湯が噴出されている、など。
  • 飯がうまい:感動するのはサウナばかりでは無い。飯も酒も美味しい。しかもwifi完備でワーキングスペースもある。
  • 館内着・タオルが使い放題:なんど入っても、カラッと綺麗なタオルと館内着が待っている。

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そもそもこの日は早々に予定が終わったので、cpa氏と三宮の喫茶店でデートした。彼と二人きりであんなに喋ったのはたぶん初めてだったが、ぼくにとっては緊張と幸福の時間だった。(彼は学部時代からのレジェンドなわけで。僕は、彼に対等に喋ってもらえると、それだけで認めてもらえた気がして嬉しいのだ。大学でもお喋りしたいなあ)気づくと4時間ほど喋り倒しており、飯を食ったのち土産を物色して解散。ぼくはサウナへ向かう。

(なんと阪急線ホームでは、各「三宮駅」看板すべての真下に、小さく「神戸サウナ・スパ前」と書いてある。これだけでドキドキが止まらないよ)

 サンキタ通りを進むこと三分、神戸サウナ・スパの大きな建物が迫ってくる。(おおお・・・これが彼の有名な)と思って写真アプリを起動したが、人通りが多いので急に恥ずかしくなった。せめてもと、エレベータの中で撮る(情けない。)

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料金は学生割引を使って2000円。深夜料金1000円を加えて3000円で一晩滞在できる。

 

 神戸サウナの感動は、冒頭に述べた通り。もう我を忘れてサウナを楽しんだ。何時間いたんだろうか。リクライニングシートで仮眠をとり、翌日午前中もチェックアウトぎりぎりまで入りまくる。

 チェックアウト後、新幹線の切符を買う場面でむくむくと、「もう一度入りたいなあ」と。みどりの窓口前で踵を返し、再度神戸サウナへ入場。暗くなるまで堪能する。

 ああ、幸せだ。神戸サウナのためだけに、神戸に向かうこともやむをえない。学費地獄を超えたら、もう一度向かおう。