ぬまのつぐみ

おもにサウナで気持ちよくなったことを自慢するブログです

アスティル

12月はみんなして僕をイジメてきたので、サウナに入るより他はなかった。M本にも言ったけれど、どんなことがあっても、サウナは全部リセットしてくれる魔法の装置なのである。

・・・どうせ誰も読んで無いだろうから、少しだけ好きな話をさせてもらう。このサウナ・リセットの話にまつわるのだけど、論語の一節を少しだけ理解させてくれた教材があった。2ちゃんねるのまとめである:

blog.livedoor.jp

本当かどうかはさておいて(追)、妖怪退治をしている主人公が様々なエピソードを展開していく。この話に惹きつけられるのは、主人公の語り口で展開される妖怪退治の考え方が、筋道立てて説明されてる点だ。例えば、主人公が師匠の話を述べている場面(辛抱して読んでみてん):

先生は笑って

実は自分でも、たまに自分のやっていることがすこし残酷じゃないのかとか思うことがある 

でも、例えそうだとしても、後悔はしていない。

なぜなら、それは間違いなく自分のその時にやりたいと思ったことだからだ。

人間はセイチョクにいきるのが一番だ。とかなんとか。

俺はセイチョクって何ですかと聞いた。

すると先生はお酒が入ってか、すこし饒舌になって語り始めた。

セイチョクってのは「正直」ってかいて「セイチョク」って読むんだよ。

でも勘違いするな、セイチョクは「ショウジキ」じゃない。

「ショウジキ」はお坊さん用語で、嘘をつかないことを指している

お坊さんたちの世界ではウソをつくと地獄に落ちる。

セイチョクは違う。セイチョク正直、文字通りまっすぐであるという意味だ。

何にまっすぐか、そりゃあ、自分の心にだよ

 

そして、先生は、昔のすごい人で孔子ってひとの話をしてくれた。

ある日、孔子がある国の王様と話をしていたら、その王様が

「うちの国のものはみんな正直だ!例えばAの家の父親がBの家のヤギをぬすんだ
 すると、Aの家の息子さんが、自分の父親が盗んだと証言したんだ」

 すると、孔子はこう答えた

「私が思う正直はそうではありません。もし親が盗みを働いたら、子供はそれを隠くし子供が盗みを働いたら、親はそれを隠ぺいする。これが本当の意味での正直だ」

と。 

 

自分の心に素直に従って行動する。 

これがとても大切だ。妖怪と接する際も、人間と接する際もこれだけは変わらない。

自分の本当の心に従うんなら、うそついても、ごまかしても、なんか悪いことをしてもそれはしかたないことだ。自分の本心なんだから。

・・・

ここで、論語の一節「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す、直きこと其の内に在り」が引き合いに出されながら、「自分の心に素直な選択が心の安寧をもたらす」というお話が紹介されていた。(こうした宗教や文学は、反省のためのシンプルな考え方を提示してくれる有用なツールだなあ・・・ぼくは単細胞なので、この妖怪退治の話を「ほほほう」と深く感心した。)

 しかし。しかしですよ。サウナでは近しい状態を得られるのですよ旦那。以前も書いたけど、サウナに入るとなぜか思考が研ぎ澄まされる(というか要らないことを考える余裕が無くなる)。サウナはいろんなことを考えるのに最適な空間だ。研究のこと、将来のこと、女のこと、晩飯のこと。このとき、「いまの自分が正しいのだろうか」という自問タイムが必ず訪れるのだが、上記で引用したような「いままでの自分は、自分に素直だった」という自己肯定(自己説得かも)へと、サウナは導いてくれる。いずれにしろ、自分を許してあげられる空間なのである。その意味で、サウナは全部リセットしてくれる魔法の装置だ。

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 「みんなサウナに行けばよいのに・・・」と思っていたが、そんな単純ではないようだ。この日は新橋のアスティルに向かった。年末ということで人も多いが仕方ない。だけれども、五人ほどの酔っ払い集団がサウナ室に乱入し、楽しそうに暴れまくり、他の客とも口論しまくり、警備員が出動する始末。ああ、サウナが周知されすぎると、良質なサウナが侵されちゃう。あまりみんなが来るのもなあ。

 ちなみにアスティルは、テレビがない珍しいサウナだ。照明も柔らかくて、じっとりと過ぎ行く濃厚な時間を楽しめる。もちろん水風呂もばっちりだ。(これで外気浴があればなあ)。この日のアスティルは気持ちよかったけど、別のサウナにも行っちゃおうかしらんと思える日であった。(つづく)

 

(追)「インターネットの話をどこまで信じるか?」という話を突き詰めると、"ある情報"が「本当かどうか」の判断基準の話に帰着することは明白だと思う。"ある情報"はテレビの情報番組で提示される円グラフ、ラジオで流れてくる交通情報などなんでもよい。(ここでは、情報の判断という題材を通じて、オカルト話を導入として科学哲学の紹介から俺様主張への橋渡しを試みる)。

 結論から述べると、テレビ・ラジオ・インターネット等すべての情報において(殊趣味においては)、「本当かどうか」を気にすることは、じつは野暮だったりするというのが所感。(糞何様の与太話なのだけれど、酔っ払っているからいいだらう。この節は自己正当化の役割が大きいし)というのも、研究の泥沼に沈むほどに、「本当かどうか」という話は、結局のところ個人のイデオロギーに強く依拠するのでは無いかと、かんじるようになった。

 このおはなしの導入として、怖い話まとめブログというサイトがある。ネットに氾濫する怖い話をひたすらまとめてくれているサイトで、ピンキリの数千のエピソードがある。ぼくは毎日、学食のソーセージカレーを食べながら怖い話を読むのが1日の楽しみなのだけど、ここでオカルトが「嘘か真か」を気にしていたら楽しめない。

 オカルト話の信憑性、つまり幽霊は「本当にいるのか」を考えるときに、多くのひとがまず考える思考経路は「非科学的だ」だろう。しかしこのとき、じつは「科学的」という単語の意味を説明できる人は一握りだとおもう。なにより非科学という言葉を使うためには、科学を説明できなくてはいけない。

 科学ってなんなんだろう?これを本気で考えてみると、それだけで奥深い世界が見えてくる。この考え方を明快に提示してくれる有名な良書をふたつ紹介する:

科学哲学の冒険(戸田山和久, 2005) , 疑似科学と科学の哲学(伊勢田哲治, 2003)

ここでは科学哲学という分野がおおいに活躍する。戸田山(2005)は学生と先生の対話形式で議論が進んで行き、文章も平易でめちゃくちゃ読みやすい(と同時に、先生方はこういった学生が理想としているかもしれない)。伊勢田(2003)は疑似科学(たとえば占星術東洋医学)を例として、演繹・帰納法などの基本的な概念を丁寧に織り込みながら、科学との違いを議論することで"科学"の形を浮き彫りにしていく。いずれも寝る前に読んで楽しいおすすめの本。(とくに社会科学に身をおく方々ならば、必ず「社会科学って科学なんか?」という類の疑問が付き纏うと思う。)

 創造科学を例とすると、キリスト教の創造説とダーウィン進化論の論争が(必然ながら)勃発し、1990年ごろにはアメリカで裁判にまでなっている。この裁判では「創造科学が科学かどうか」の攻防において、「科学の定義」が芳醇に議論され、結果として「検証できない(反証可能性をもたない)」ことを理由として「創造科学は科学ではない」との判決に至った。(詳しくは図書館で借りて読んでみてね。すげーおもしろいから)

 科学哲学さんの手を借りて主張したいことは"科学"の定義が実は難しいということで、多くの人の「オカルトは非科学的」という直感に疑問を投げかけてみた。しかしこれでは、オカルト否定材料の一つを殴っただけにすぎないし、それで観察できないモノの存在を認めろという話は賛同を得られないだろう。(じつはこの観察できるものの議論が科学哲学での重要な論点なのだけど割愛。詳しくは構成主義でググってみると幸せ)。

 反対に、オカルト話の肯定的立場からも、否定派に対してなにか主張しなくてはいけないだろう。ここはブログだから、傍若無人にラーメンズのコントを引き合いに出してみる。

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片桐仁(左)小林賢太郎(右)©Twinkle Corp. Ltd.

 

彼らの公演「TEXT」(2007年)より、「不透明な会話」という15分ほどのコントがある。この中で、透明人間の存在を巡って以下のやり取りがある:

 片桐「みえない透明人間を信じろってほうが難しいだろ」

 小林「お前はなんだ、見えないものは信じないのか。たとえば昼間、星は見えないけれど、お前は存在を疑うか?」

 片桐「それとこれとは完全に違う話だ。俺は星の存在を信じる。だって見たことあるもん。でも透明人間は見たことねえもん」

 小林「そりゃ透明人間だもん。誰も見たことねえよ。透明なんだから。」

 片桐「じゃあなんで居るって言い切れるんだよ」

 小林「居ないって言い切れないからだよ」

という問答がひたすら続く(そして直後の「条例」というコントの布石でもあるのだが。ラーメンズ愛はまたどこかで語らん)。ここでの「居ないって言い切れない」ということは、「透明人間が居ない」という証明が不可能、つまり「透明人間が居る」という命題の反証可能性を否定することで「透明人間が居ない」という議論を無効化する、乱暴なやり口だ。この話は論理の対偶を用いるとすぐに否定されてしまうのだけどね。(でもこのコント面白いからみてみて)

 ここまでをまとめてみると、オカルト事象は反証不可能なので非科学的であり、科学的存在を認めるに至らない。一方オカルト擁護派は論理のやや乱暴な詭弁によってオカルト否定行為自体を否定しようと試みた・・・裁判員が何人いても、この幼稚なオカルト論争は、否定派に軍配があがるだろう。

 しかし実際にいるのかどうかは、まさしく神のみぞ知るのである。科学哲学では、現代の科学的手法を用いて観察できたからといって、観察対象が実在するといってよいのかが議論の一つである(つまり、量子や原子は見えないのに、機械による間接的な観察でそれらの実在を主張してよいの?ということ)。もうこうなってくると泥沼であるし、何世紀たってもわかりそうにない(から面白い)。じゃあ科学って意味ないのだろうか。そんな疑問に、森博嗣の言葉が勇気付けてくれる:

算数や数学、そして物理といった科目が教えてくれるのは、「道理」というものの扱い方、すなわち、ものを考える「方法」である。勉強とは「言葉を覚えることだ」と、思っている人には、数学が実社会で役に立つものにはみえない。つるかめ算が役に立つような場面もないし、微積分の能力が求められることもまずない。しかし、これらの精神といえるもの、すなわち「科学」の「方法」は、まちがいなく現代社会の基盤を成している。

科学的とはどういう意味か(森博嗣 2011)

オカルトの信憑性から、科学の信憑性に話をシフトした。科学は全てを答えてくれるわけではないし、科学が全知全能でないならば、我々は真実を知るすべもない。だから、オカルトの是非も究極的にはわからない(という強引なこじつけ)。

 しかし、オカルトを楽しめる人と楽しめない人が世の中に存在するのはどういう理由だろう。このとき、多くの人が「科学」を主な論拠とするならば、彼らの違いを説明する理由は二つ考えられる:①科学に全幅の信頼をおく(ゆえにオカルトを否定する);②科学にこだわらない(ゆえにオカルトの是非を気にしない)。もちろんこれだけがすべての説明にはならないけど、ある1次元つまり「科学的」という側面を切り取るならば、上記のように分類できるのではなかろうか。そして、科学に信頼をおく身の人々(ぼくも含めて)は、科学の定義を知らないと、思考方法の根幹から否定されかねない危険を孕んでいる(だから分析手法のフォローアップを止められない。でもそもそも追いつけない。泣)。

 一方で、科学をよく知らなくてもオカルトを否定する人々は「科学」の言葉を借りながら「自分が認めたくないもの」の主張をしていることになるのではないか知らん(アネクドートね。このブログもね)。オカルトのような、個人の本業と関係ない領域については、真偽のほどは傍にどけて置いて、本当にあったと思って読んだ方が楽しいと思う。そしてこのオカルトの正否の議論は、インターネットでも同じように考えることができるし、ひいては任意の情報に対する判断基準に拡張できると思われ(早足で雑)。

(という主張が言いたくて書いてみたけど、インターネットやオカルトの話から他のメディアへの一般化もしてないし、そもそもまったく論理的でない文章だし、頭の悪さが露呈しただけだった。。でも好きなものをいくつか打ち込めたからいいや(なぜならIF=0)。正月だし思い切り書いてみたけど、たぶん後からすごい恥ずかしくなるんだろうなあ。あとほんとぜんぜん関係ないけど、いまnever young beachの「お別れの歌」を聴いているのだけど、PVの小松菜奈と彼氏役のやりとりが芝居だったらスゲェ, youtube-Link: Official. ) 

つくばユーワールド

皆様には、兎に角こちらをご覧いただきたいです:

tver.jp

マツコの知らない世界」で、サウナが取り上げられていました。。。しかもタイムズスパレスタさやの湯が出ている。嬉しい。12月27日までしか視聴できないので是非。

帰ってきてから観たけれど、今すぐにサウナ行きたくなった。(最近好きなものを想像すると涎が出るんだけれど、この反射はどこで培われたのかしらん)

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そういえば先日、サウナから帰る道すがら、原付の上で昇天しそうになった。

 その日はバイト帰りにつくばユーワールドのサウナに入った。いつもサウナと水風呂の往復は、水風呂に入って終わるのだけれど、冬到来なのでサウナで締めた。しっとり汗をかいたまま原付に跨り家路につく。外気は1度、時速30kmで移動すると体感温度はだいたいマイナス10℃。外気が水風呂の代わりになり、どんどん気持ちよくなってゆく。伝わりづらいと思うけれど、前を流れる景色が一点に集中してゆく。(これがまたすんごく気持ちいい)脳内お花畑のまま家に到着。まだちょっと、身体が火照っている。冬もサウナは最高だ。

また、この日のサウナはいろいろ考えがすっきりした日だった(以下雑感)

  • 現在二つの研究領域に跨っているのだが、どうにか一つのフレームで議論できないかと考えていたら、できそうな気がしてきた(サウナのおかげで)。汗ダクダクで「ムッ(-"-;) 」となったのだけど、DIDの両軸を外生と見做すことはほぼ不可能なのだが、片軸でもIVの構造を見つければ、それだけで既存のDID分析を上回るわけで(仮定が満たされれば)。じゃあ両軸をIV にすれば?と思ったけど、結局これは唯のDIDより質が落ちそうな危険な香り(面倒臭い)。DIDの片方は純粋な自然実験的状況とし、もう片方はIVにするのが楽なのでは(常識だったろうけど、アタイは今実感できたの)。
  • こう考えるとなるほど、パズルのようなもので、手持ちの駒でも当てはまりそうな組合せが出てきた。この気づきはかなりスッキリした。ポジティブキャンペーンではなく、明らかにサウナはこの思考整理に一役かってくれた。
  • どうせ日記みたいなものなので、ついでに書かせてもらうと、DIDを使う以上は Balance test がやっぱり必要となってくるけれど、Balancingな状況は実はなかなか無い(自然実験て・・・)。ということはExperimentalだと主張できないDIDで識別することになるけれど、それだとフィールドトップにはもはや届かないだろう(Common trend checkだけでは足りない感あるし)。けっきょく、僕はいつまでたっても時代遅れの因果推論を使ってるんだなあ。わからないことだらけだ(トホホ)。
  • この状況を打開する一つの案として注目されたのが傾向スコアマッチングなのだろう。先日ReStatのGeneralized Propensity Scoreを応用した論文を教えて貰った。どうやらこれが今のペーパーに使えそうなのだが、結局変数選択から恣意性を拭えない以上、まだ人の好き嫌いの域を出ないように感じる。ぼくそこまでの論理力無いですし。とりあえず今度のセミナー用に、応用するよう頑張ってはみたい。(ちなみにセミナーは仙台なので、キュア国分町が待っている。嗚呼、なんということか。今から楽しみでならない。あすこのロウリュはまた最高なんだ。あと外気浴スペース。キンキンの深い水風呂も恋しい)
  • サウナでもう一つクリアになった疑問は、因果推論と予測の人が会話をするときに、お互いをどう認識すればよいのかいまだに分からない(別にどちらを使うのも、それぞれの流儀があるのだと思うけど)。「どっちもガチで勉強しろ」という話なんだろうけど,それならどこか共通点をもつテーマを導入にしたい。足がかりとしてGibbons et al. (2014)を読んでみようと思ったけれど、そういえば俺時系列弱いんだった。終了。誰かにわかりやすく教えてほしいと思うのは甘えだろうか。

池袋タイムズ・スパ・レスタ

サウナ室内では、皆思い思いに時間を費やしている。ボウっとテレビを観ているおじさん。小声で喋る兄ちゃんたち。滴る自分の汗を無心で眺めるマッチョ。

突如、ジュワーッと音が鳴り響く自動ロウリュだ。天井から水が落ち、熱々のサウナストーンに降りかかった。

瞬間、サウナは静寂に包まれる。

汗まみれの男たちが一斉に音源を眺めている。涎を飲み込むような、恍惚とした、満ち足りた眼差しだ。そして皆ゆっくりと瞼を閉じる。ロウリュの暖かさを噛み締めている。

(ああ。ここに居る人たちは、サウナが本当に好きなんだ)

なんとなく僕も幸せになり、来る熱波に備えて頭を垂れた。

 

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というタイムズ・スパ・レスタでのひと場面。先日Wタさんとサウナミーティングを開催したときだ。

 W氏は先月関西のサウナを渡り歩いており、逐一報告をもらっていた。「もしやこの人とはサウナ一緒に行けるかも・・・?」と思ったのはその時だった。

(心から好きなものを共有するのは、一歩間違えれば傷を負うので、おいそれとオープンにはできない)

 

www.timesspa-resta.jp

 

夕方、Wタさんとレスタ入り口で落ち合う。

 

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 サウナは、誰でも一緒に行けるわけではない(私の器が狭いだけだが、今のところ改める気もない)。"サウナ"が好きな人じゃないと、どうしてもフラストレーションが溜まる。つまり互いにそれぞれが、サウナを楽しむ自分のテンポを知っていて、べったり一緒に行動する必要がないということ(ナニサマ発言)。 僕は、個々のペースで湯船・サウナ・水風呂・外気浴を満喫し、たまに近くに座ったら会話を交わすくらいがちょうどよいと思っています。

 ネガティブな意味ではなく、W氏は独りの時間の楽しみ方を会得しているように見受けられる(独りを楽しめる人は、皆すべからく格好よく映るので憧れる)。沈黙は会話の跡切れではなく風呂を堪能する時間。友達が同じくサウナを満喫しているだけで、サウナの楽しさは倍増だ。(というのが私の独りよがりで、実はW氏に不満が溜まっていたら、それはごめんなさい。しかしWタさん、俺楽しかったよ。また付き合ってくれると嬉しい) 

 おのおの好きなタイミングで浴場を退出。「サウナ入るとなんか腹減るよね」と言いながら飯を一緒に食べる。ここでやっと、まとまった会話を交わした。(以前も書いたけど、喋るほどにW氏は味が出てくる。旅館の件なんか最高だった)

 サウナ・ご飯と来たら、あとは寝るだけ。リクライニングスペースに二人で横になり涅槃の世界へ。

神戸サウナ・スパ

 

神戸サウナは最高だった。すごい。すばらしい。マーベラス。ほんとに。

 

どうしよう。この感動を正しく伝えきれそうにない。箇条書きだと以下の通り:

  • フィンランドサウナがある(セルフロウリュ可):岩に水をかける「ジュワッ」という音の、なんと神聖なことか。テレビがなく静かで、照明は薄暗く、さらに大きな窓が付いている。静かな気持ちで、じわじわサウナを楽しむには最高の空間だ。
  • 水風呂が外にある:17℃表記の水風呂にプカプカ浮かびながら空を眺めていると(こんな贅沢があってよいものだろうか)と心配になる。そのまま外気浴をすると天に召される。
  • 15℃の水風呂もある:深い浴槽(胸くらい)で15℃はかなり嬉しい。水風呂のすぐ目の前にはミネラルウォーター完備。最強か。
  • アウフグースが20分おき:メインサウナはテレビ付きの明るいサウナ。そこでは20分おきに兄ちゃんたちが全力で扇いでくれる。なんてこった。いつサウナループを抜ければいいんだ。
  • 細かい心遣いが散見される:サウナのクオリティはもちろんのこと、浴場の出入口足元に常にお湯が噴出されている、など。
  • 飯がうまい:感動するのはサウナばかりでは無い。飯も酒も美味しい。しかもwifi完備でワーキングスペースもある。
  • 館内着・タオルが使い放題:なんど入っても、カラッと綺麗なタオルと館内着が待っている。

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そもそもこの日は早々に予定が終わったので、cpa氏と三宮の喫茶店でデートした。彼と二人きりであんなに喋ったのはたぶん初めてだったが、ぼくにとっては緊張と幸福の時間だった。(彼は学部時代からのレジェンドなわけで。僕は、彼に対等に喋ってもらえると、それだけで認めてもらえた気がして嬉しいのだ。大学でもお喋りしたいなあ)気づくと4時間ほど喋り倒しており、飯を食ったのち土産を物色して解散。ぼくはサウナへ向かう。

(なんと阪急線ホームでは、各「三宮駅」看板すべての真下に、小さく「神戸サウナ・スパ前」と書いてある。これだけでドキドキが止まらないよ)

 サンキタ通りを進むこと三分、神戸サウナ・スパの大きな建物が迫ってくる。(おおお・・・これが彼の有名な)と思って写真アプリを起動したが、人通りが多いので急に恥ずかしくなった。せめてもと、エレベータの中で撮る(情けない。)

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料金は学生割引を使って2000円。深夜料金1000円を加えて3000円で一晩滞在できる。

 

 神戸サウナの感動は、冒頭に述べた通り。もう我を忘れてサウナを楽しんだ。何時間いたんだろうか。リクライニングシートで仮眠をとり、翌日午前中もチェックアウトぎりぎりまで入りまくる。

 チェックアウト後、新幹線の切符を買う場面でむくむくと、「もう一度入りたいなあ」と。みどりの窓口前で踵を返し、再度神戸サウナへ入場。暗くなるまで堪能する。

 ああ、幸せだ。神戸サウナのためだけに、神戸に向かうこともやむをえない。学費地獄を超えたら、もう一度向かおう。

ふじ温泉

今週末は神戸。

出張1日目は生憎の雨模様で、慣れない土地でバスに揺られて会場へ向かった。とくになにもない1日だったが、懇親会で友達が二人できたのでよかった(わたしの片思いでないといいけど)。

懇親会終わり、先輩Kさんと宿まで歩きながら「銭湯でも行きますか」とその場でググったのがこちら、ふじ温泉。

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シャンプーなどが置いていないいわゆる銭湯だが、かなり充実した内容だった。入浴料(350円)を支払い、スーツを脱いでロッカーにくしゃくしゃに押し込む。扉を開けると、けっこう広いくて種類も豊富。炭酸温泉、ジャグジー・電気風呂に加え、スチームサウナと水風呂。

購入した安い石鹸類で身体を流していざ入浴。思いの外きもちよい。この日は、神戸までの移動と雨のジメジメ、1日スーツを着ていたことで不満が知らぬ間に疲れが溜まっていたようで。だから最高だった。

スチームサウナもかなり温度が高く感じられる。あまりサウナに入る人が居ないようで独占状態だった。水風呂は20℃だろう。まずまず。先輩を待たせないように、二往復して退散。

銭湯をでると、ぬるい夜風が心地よい。すぐ目の前には線路が走っていて風情が漂う。心地よい風呂上がりに、電車が走る脇を歩くだけで結構幸せな気分になれるものなのだなあ。

宿にはいり寝支度をして、次の日の発表原稿を見直そうとしたら22:30には消灯された。(ええい、明日はどうにでもなれ)と思って爆睡。

(つづく)

蛇骨湯

「ヨーォッ」(パパパンッ)(パパパンッ)(パパパンッ)(パンッ)

 

江戸っ子だねェ。

 

ということで、浅草は鷲神社の酉の市へ向かう(追1)。今日は夜勤明けで、あまりにも作業が出来なかった(という言い訳だけど)。

 浅草駅で降りて国際通りを北上する。すれ違う人たちが大きな熊手を携えており、お祭り気分がすでに伺える。

 この日は凄い混雑のため、参拝のためには長い行列に並ばなければならない。参拝列は浅草方面・三ノ輪方面からそれぞれ伸びており、鳥居の前で合流するかたちとなる。浅草からは200m程の列が伸びており、並ぶと1時間はかかる。一方三ノ輪方面は人が少ないため50m程で済む。

 古い熊手を納めてから列に加わり、ちまちま前進すること15分ほどか。鳥居前の合流地点へ。

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鷲神社は普段ガランとした小さな神社の印象なのだけど、この日ばかりは雰囲気がまるで違う。そこかしこで、威勢の良い手締めが鳴り響く。

 

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境内に入ると、さらに30分ほどかけて鰐口の前へすすむ。

白赤黒の提灯が圧巻。(正直、この提灯を見に来たようなものだ)

 

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お参りを済ませてお店を回る。この時間も結構好き(というか参拝列から興奮しっぱなしなのだが)。

半被(?)を着ると男性は格好よく見えるし、女性は気高い。

綺麗な着物姿の、いかにも「女将さん」という風体の初老の女性が、毅然と切り盛りしている様は、ほんとうに、心の底から惚れ惚れする。

江戸っ子気質か商売人だからなのかはわからないが、値段を聞いて回るとドライな返答が多いもので(といっても嫌味は感じられないのが不思議なのだが)。

 

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 熊手のデザインもさまざまで、気に入ったものを見つけるのに結構時間がかかってしまった。(欲深く、お多福・小判・鶴が織り込んであるものにした。)自宅と研究室用の二つを購入することに。

 お店の前でチャキチャキ指示を出していたお爺さんに尋ねると、大変に優しい声で説明をしてくれた。さらには、「もう最後だから」と向こうから値切りをしてくれた(ここで僕は無粋だった:追2)。

 お爺さん「二つ合わせて3000円で。残りはご祝儀ということで、お気持ちだけ。100円でもいいよ」

 わ「じゃあこれで宜しくお願いします」(3500円)

  会計をすませると、商売棚にスペースを空け、二つの熊手を丁寧に、大事そうに並べてくれる。

 お爺さんが「手締めだ。」と若衆に一括。並べられた熊手に向かい、大きな声で一本締めを一緒に行う(本記事冒頭のアレ)。わーっと拍手で締められ、「境内を出るまでは袋に入れてはいけないよ。縁起もんだからね。たくさん福をかき集めて出て行ってください」と最後まで丁寧に見送られた。

 お爺さんの言に従い、境内をフラフラしてから鷲神社を後にする。これは本当に不思議なのだが、飾り物を買っただけなのに、大変に心持ちの良い気分になる(追3)。なんでこんなに気分が晴れるんだべ・・・と考えながら浅草方面へ。

 

 まだ時間も20:00頃だったので、蛇骨湯へ向かう。ここは初めてだ。

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思ったより綺麗な外観で拍子抜け(もっとザ・銭湯という佇まいを想像していた)。入浴料・タオル・サウナ代で800円。

 ここのサウナは6人ほど座れる造りで、小さなテレビがついている。温度計は97℃を指しており、湿度もそこそこある。清潔なので気持ち良い。池上さんの番組を観ながらポタポタと汗を流し、10分ほどで退室。水風呂は露天風呂と共に外にある。こちらは17℃を指していたが、多分19℃くらいしか無いのではなかろうか(外が寒かったのでちょうど良かったけれど)。外気浴スペースとして丸椅子が並べてあり、脇には池が。1m近くある立派な鯉が20匹もうようよ泳いでいる。二往復した時点で人が多くなってきたので退店。

 吐息も白くなってきた。今日の献立を考えながら帰路につく。良き日だった。

 

 

(追1)鷲神社の酉の市:鷲神社の祭神は天日鷲命日本武尊で、天日鷲命を知らなかったので調べてみると日本書紀から登場する模様。どうやら岩戸隠れのときの天細女命のエロいダンスに合わせて楽器を鳴らしていた神様らしい。酉の市の起源は神道仏教で解釈が異なるらしく、勉強してみたら楽しそうだ。ああ、楽しい。

 

(追2)値切り:安くなってラッキーだったと思いながら、違和感を感じて調べてみると後悔した。値切りは一種の儀式で、値切った分をご祝儀として支払うのだそうだ。僕はまだまだ子どもだと痛感させられる。

 

(追3)どうして晴れやかになれるんだろうか。納得がいかない。来るのは3回目なのだけども毎度困惑する。最初は祭りの雰囲気に当てられているのだと思っていたが、どうやらそうではない。一本締めで大きい声を出してスッキリしたのか。多分違う。きっと、ああいった商売人と触れ合ったからという理由が一番大きいような気がする。

(以下ゴミのような雑記)

・粋な商売人というべきか、江戸っ子というものか表現に困るのだけれど、落語や芝居から出てきたような「本物の」人たちと触れ合う体験だった。ドリヲ氏とも話していたが、落語の登場人物はカラッとした気質の人間が多い。それは酉の市や朝顔市、ほおずき市などの商売人に通じるものがあり、嫌味のないドライな対応からそれを感じることができる。(また、彼らが半被を纏っているからそういった一面が誇張されているのであって、東京下町の店員さん全般でも偶に感じることではある。つまり、酉の市のような商業に限らず東京の土壌が育む人格のひとつのような気もする)

・また斯様な商売人や来訪者には「粋な大人だ」と感想を抱かずにはいられない場面も多い。粋な大人に囲まれていると気分が良いのも確かだ。(では「粋」って一体?という本を紹介されて読んでいるが、これが苦戦する。そして読み進めるごとに、見事に僕は当てはまらないと痛感させられるのである。泣)

・談志は「落語は人間の業の肯定」と表現していた。きっとその本質とは異なるが、落語の登場人物は悪事をしでかしても深刻な態度をとらない。人の死さえも軽い笑いに浄化する世界だ。鷲神社で感じた御伽噺のような雰囲気は、少しだけ談志の言葉で表現され得るような気もする(要考察)。

 

(なんかしょうもないことを書いてしまった。いつまでたっても文章は上手くならない。ごめんなさい。)

安心お宿 新宿駅前店

 金曜日、Ackieが東京出張ということで合流することに。23:00頃に新宿へ向かうと、すでにKっちゃんと合流し、二人で腹一杯の飯を食べ終わっただった。

   ふたり「サーロイン2枚も食べちゃった」

     わ「(腹立つ・・・)まあ、もう一軒付き合ってよ」

 Kっちゃん「お前が忘れたっつってた店行くべ」

 

僕が名前を忘れていた美味しいお店をKっちゃんが覚えていたので、そこに向かう。名前を陶玄房というらしい。名前を聞いても正直ピンとこなかったが、扉の前まで来て思い出した。

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ここは、飲み物も食べ物も、何を頼んでも美味しい(騙されたと思って、一度足を運んで頂きたい)。

 Ackieと会う機会は限られているので(とは言っても2,3ヶ月に1度は会っているが)、とりあえず近況を話していたらあっという間に時間が過ぎてしまう。

「尻の穴を見せ合うほどの仲」という表現があるが、つまり嫌という程お互いのことを喋っている気のおけない仲ということだけれど、それでも会話が途切れない彼らとの縁は、なかなか幸運な巡り合わせだ。話題に興味がなければ黙っててもよいし、それを苦にもしていないようだ。(まあ、これは惚気の一種か。恐縮です)

 1:00過ぎに会計を済ませ、バッティングセンターへ向かう。

今週の鬱憤をぶつけるK氏

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やけに楽しそうなA氏

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3ゲームずつやって、少し肩が重くなってからカラオケへ。ここで、眠気が暴発してグダグダになる(というか僕が金欠のため移動できず、スマヌ)。

 5:00頃に店を出ると、しとしとと雨が降っていた。Kっちゃんとバイバイし、Ackieと二人で風呂へ。テルマー湯へ向かおうとしていたが、調べたら朝には閉店ということで新宿の安心お宿へ。生憎カプセルは満室だったため、風呂だけ入る。ここは一応ミストサウナがあるが、水風呂がない(ううん)。アメニティは充実しているけれど。

 眠気でフラフラしながらコーヒーを飲んで、彼ともバイバイとなる。彼は午後の勤務、僕は授業だ。次に彼と会えるのは何時だろう。年内にはもう一度会えたらいいな。